暁月夜譚

弐ノ巻


「蝶屋敷の奥か……」
 蝶屋敷に義勇も来たことは無論、ある。義勇自身がたいしたことないと思う怪我であってもしのぶが黙ってはいなかったからだ。
 鬼殺隊の治療を担っているだけはあり、蝶屋敷はかなり広い。実態はどれほどなのかは義勇は当然知り得てはいない。何しろ彼の場合、医療室で必要最低限の手当を受ければ直ぐ離れていたのも一因と言えよう。
 ふと、義勇は他の柱たちでさえここまで来たことはないのでは無いかと思った。
 しのぶに誘われるままに来たが、この一角は他の場所とは明らかに違っていたからである。
 その証拠に幾重にも鍵を解錠し、しのぶは義勇をこの場まで連れてきたのだ。
「人を近寄らせないためか?」
「ええ、ここへは、こちらの離れへはなるべく誰も来ないように伝えてありますから」
 毒の研究はともすれば自身も危うい、屋敷のものを護るために別棟に置いてある。しのぶの毒はそれほど強力で危険だということだ。何しろ鬼の弱点である首を切らずに鬼を殺せるのだから。
 毒を武器と決めたのは己の体躯のせいだ。鬼殺隊入隊後もしのぶの体躯は筋力が足りていないままだった。軽い、ということが利点ではあるが、それを活かす戦闘方法は少ない。その点については姉はもちろん、お館様にも行冥にも幾度となく言われたことでもある。
 けれどしのぶは諦めることをしなかった。
 鬼に唯一効く毒、藤の花をひたすら研究し、それだけでは無く毒も薬も厭わず学び、独自にそれらを組み合わせた。戦闘時に瞬時に出来ねば意味をなさぬからその訓練と、そしてその技に合う刀剣も鍛冶師に作って貰った。
 そうして、ついには蟲柱として認められたのだ。
 胡蝶しのぶだからこそ出来る戦いはそうして作られたもの。他の誰にも出来ない、させない戦闘方法だと理解している。
 故に毒も薬も扱いにはそれ相応に気を付けねばならない。アオイにも多少教えてはいるが、あくまで隊士たちの治療中心で、毒に関しては必要最低限のみだ。
 継子であるカナヲは自分の技では無く、姉の技を受け付いていればいい。
 正直、カナヲほどの力量があればと何度も思ったが、逆に自分に万が一があってもやっていけると言うことだと思っている。
「……お前らしい」
 義勇はただそれだけを言葉にし、それだけでしのぶは彼のうちに秘められた言葉を理解した。
「嬉しい褒め言葉ですね。私らしいって認めてくれるんですね」
「褒め言葉か? どうあろうともお前はお前だろう」
 素っ気も飾りも無い言葉、けれど彼は嘘は言わない。
 それはしのぶにとってどれほどの価値があるか、義勇には分からないだろう。
「さあ、こちらへいらして下さい」
 更に歩を進めるよう誘い、奥の間までたどり着いた。
「ここが私の閨ですよ」
 しのぶがすっと襖を開ければ、そこにあったのは質素で飾り気の無い部屋であった。年頃と言えるしのぶの年には似合わないほどに。
「意外ですか? まあ、ここは寝るだけですので何も無いですよ。ここで寝ないことも多いですし。ああ、安心して下さい、ちゃんと清潔ですよ」
「……分かっている」
 今日はとても短い言葉が心地いい。いつもなら歯痒い思いをしているのに、だ。
 そうして、どちらからともなく向かい合って、座した。
 さて、どう持って行けばいいかしのぶが思案していると、意外にも義勇の方から行動を起こしてきた。
 しのぶの髪飾りをそっと義勇が触れてきたのだ。
「……胡蝶姉と揃いだな」
  彼は姉妹のことを名前では呼ばなかったことを思い出す。いつでも、姉、妹、そんな呼び方だった。よく抗議したものだが、結局は直らないまま、しのぶは姉を喪ってしまった。義勇に自分の名をちゃんと呼ばせる機会もあの時に奪われてしまったのだと今更だが気が付いた。
「そうですね、大事な大事な姉さんとの思い出です」
 少し考え、義勇は尋ねた。
「…胡蝶、触ってもいいか?」
「まず何を触りたいか、言ってください。後、そういうときはしのぶ、ってちゃんと私の名前で呼んで貰いたいんですけど。……だけど、あなたが私にお願いするなんて珍しいこともあるものですね」
 まさかそんな願いを言ってくるとは思ってもみなかったのでしのぶは表情に出さないまでも実は驚いていた。
「まあ、貴方は昔から私たち姉妹を名前で呼ぶってことがなかったですね。それこそ胡蝶姉、胡蝶妹みたいな呼び方だけで。それより胡蝶姉妹とまとめて呼ぶほうが多かったかもしれませんね」
「……間違ってはいない。お前が嫌ならば触らん」
 当然、この間に呼び方は間違ってはいない、髪飾りに触るなと言うなら、という言葉がある、口にしないだけで。
「その間が抜けてますよ、また! でも、そうですねえ、今日は特別だから許してあげましょう」
 皮肉でも返ってくるだろうかとしのぶが思っていると、義勇は何も言わず静かに髪飾りを外した。
 さらりとしのぶの髪が広がる。姉のカナエほど長い髪をしてはいないが、それでも美しい黒髪がさらりと広がった。
「義勇さんは変なところで器用ですね。私の髪飾り、外せるなんて」
「……いつも見ていれば分かる……」
 義勇のその言葉にしのぶの顔に朱が走る。
 いつも? いつもっていいましたよね? どういうことです?
 普段ならば流せる言葉が今は流せない。
 しのぶを見ているからと言って何が分かるのか、いつもであればそう問うただろうが、それが今日は出来なかった。
「顔が赤いぞ」
「あ、あなたが急に変なことを言うからですよ」
「変? 見ていたというのが変なことだと言うのか?」
「……い、いいですよ、それ以上は」
 今は絶対に予想外なことしか言いそうにない、しのぶはそう思った。
 調子が狂うってこういうことを言うんですかね。
 普段であればどちらかと言えばしのぶが先手を取っているというのに今日はどうにも勝手が違う。
 思わずしのぶは義勇から視線を逸らし、それに合わせて彼女の髪が軽く踊る。その髪を義勇は何気なくすっと手を伸ばし、触れてみる。彼の指に心地いい感触が広がった。
「……柔らかいな」
「いきなりなんですか、もう! 私も女ですからそれなりに手入れしてますよ。逆にあなたはいつでもざんばら髪ですけどね。もしかしなくても自分で切ってるんですか?」
「他にどうする?」
「まったくあなたは……」
 そう言いながら今度はしのぶが義勇の髪に触れる。
「固いですね……」
 本人の気質を現すようにしっかりとして、融通の利かない毛質に思えた。それにしても適当すぎるだろうとしのぶは思った。
「少しは手入れしたらどうなんです? 例えば……」
 しのぶが提案しようとするとすぐさま義勇は遮った。
「そんなことに時間を取られるくらいなら鍛錬を選ぶ」
 まあ、そういう人でした。
 しのぶはクスリと微笑い、
「本当に融通が利かない人ですね」
 そう言ってしのぶは己の羽織をはらりと脱いだ。
「今日はでも私の言うことを聞いて貰いますからね」
「……分かった」
 義勇もしのぶに合わせるかのように羽織を脱ぎ、静かに畳んだ。
 二人にとってそれぞれの羽織はかけがえのないものであった。大切に思う友人の、大切に思う姉妹の形見をそれぞれ違う形で背負っている。
 しのぶは義勇に合わせ、羽織を畳み、それを義勇の羽織に重ねて置いた。
 何故だろう、それが合図とでも言うように箍が外れたように二人は互いに体を寄せ合い、口づけを交わしていた……
Page Top